解除後の広野町へ②
かんぽの宿いわきから見た日の出。
辛さをもたらした海ですが、 日はまた昇ります。
かんぽの宿いわきには二次非難をされている広野町や楢葉町の被災者の方々がいらっしゃいます。直接お話を伺いたいとの思いも夜朝とも調整がとれず断念。従業員の方から少しお話を伺いました。従業員の方も同じ被災者。相手を思いやる気持ちに感服です。
いわき市高久地区の仮設住宅を訪問。
楢葉町の木造りの仮設住宅は以前お邪魔した時にはまだ建設中でした。生活の「におい」を目にさせていただくと、あくまで仮ではありますが、新しい鼓動を感じずにはいれません。ログハウスは天井が高くて広さを感じれていいけれど、冬はきちんと温まるか心配だ、とのお声も。個別に応じた対応が必要だとその場その場で感じさせられます。
近接の「サポートセンターならは」を訪問。必然的にご高齢の方が多くなる仮設住宅(団地)に造られた介護施設の出張所のようなところです。おとしよりの皆さんの楽しそうな雰囲気にこみあげてくるものがあります。職員の皆さんも多くが被災者。自分が助けていこうという気概と努力にただただ頭が下がる思いです。
100m程離れた広野町の仮設住宅を訪問。中心の「ひろの絆づくり支援センター」でお話を伺いました。各入居者からの要望の束の厚さに驚かされました。しかもほとんどが「雨漏り」。時間の経過とともにまだまだ不具合が出てくるはずです。仮設住宅に関わる予算は建設のみならず、メンテナンスにも気を配らなければならないと痛感させられます。
仮設住宅には車いすを必要とする方もいらっしゃいます。仮設の場所は砂利、これでは移動はままなりません。
先月の台風ではあと一歩で床上浸水になりそうだったところも。中心がすり鉢のようになっていてそこに水がたまってしまいました。排水のためなんとか溝をつくって難を逃れたようですが、そこは実際に立ってみると「すり鉢状」になっているとは分かりません。今後も「その時」になってみて初めて対応が必要なものが出てくるはずです。しっかりとしたサポート体制が必要です。
センターでは仮設に入られた皆さんが寂しくならないように、イベントを重視しているとのこと。お邪魔した時にはちょうどNPO方々のコンサートが。センターの会場は大勢の方が。皆さん一緒に楽しそうに歌を歌っていっらしゃいました。
最後の歌は「上を向いて歩こう」。
吉田泉衆議院議員の事務所を訪問。
湯本の広野町仮庁舎内で東京電力の福島原子力補償相談室いわき補償相談センターの方々と、昨日の農家への本払いについて現状確認。本払いはまだとの話を受け、文部科学省研究開発局原子力損害対策室と電話でやりとり。時間をおいて経産省との確認したうえで「対策はしました。もうそのようなことはない」との連絡。
昨日の農家の方に連絡をし「ホッと」するも、数時間後には「同じようにダメだった」と農家の方から電話。
どこですれ違いが生じているのか。
ともかく明日リベンジです。
広野町へ戻り遅めの昼食。今日も別の営業再開したお店。美味しい魚フライ定食をいただきました。
経営者の方の一言。「(広野町は)3月11日から時間が止まっている。そろそろ自分の足で動かないとダメ。」
詳しくは書きませんが、広野町の苦しい一面を、ある一面からみた凝縮した言葉でもあります。
浅見川河口の堤防を確認、数件お邪魔した後、町役場に。
二次補正で計上された可搬型線量計をみようとしましたが、まだ設置されていないとのこと。国の決定に県、町へ現物が配備されるまでの時間差を目の当たりにすると、一事が万事のような気もしてきます。決定までのスピードだけでなく、決定してからのスピードも重要です。
被災後に住み着いたらしいネコに役場の方々と一緒に癒され東京へ。
「自分たちはまだ被災者なんだ。」
能登半島沖地震から一年以上たった時に輪島市の仮設住宅に入られている方から聞いた言葉です。
時間の経過とともに問題が変化・発生してきています。
広野に来るたびにその言葉を思い知らされます。